『量助の一件 続き1』

今日は「九 三庁秘録」から「三十二 元禄の郷難」まで。

江戸時代の人々を苦しめたものは様々で、まず年貢が農民を苦しめた。年貢の取り立てが厳しいのだ。

 

「二三 家財を売って年貢を払う」では前野村は元々極貧しいい村で取り分け上内坪という部落は地味にわるいところであった。寛永四年には疫病が文化二年には疱瘡が大流行し一家全員死に絶えてしまったり、転退(夜逃げ)したりで二十四軒百二十人の人口が九軒四十六人に減ってしまった。その中には老人子供病人が多くとても農業を続けてはいけない。そのうえ年貢の未納分が二十両余りある。厳しく取り立てられ困った農民たちは上内坪の山林竹林を売り更には農具のほか家財道具を売り払って年貢を払うから月末まで猶予してほしいという嘆願書を出した。家財道具を売るにしてもすぐには売れない。ー乍恐以書付奉願上候ーとなったのである。この文書は文化八年二月十八日の日付だという。つまり十日ほど待ってほしいと願い出ているのだ。農具を売って仕舞っては農作業ははかどらないだろう。翌年収穫、年貢はどうするのであろう。

 

領主は布施孫三郎という旗本だ。旗本領の方が取り立てが厳しかった様であるとある。土浦藩は民政が上手かったとある。土浦藩の農民はここまで年貢に苦しまなかったのだろか。

 

更に人々を苦しめたものに凶作がある。冷害、干ばつで作物が十分に収穫できない。飢饉に備えて備蓄をしていた。稗が一番だが榎の葉、藤の葉なども蒸して干し俵に詰めて保存した。藩が一括して備蓄したり、農民がそれぞれ備蓄した。食料が不足すると被害が甚大なのは生産者である農民だ。少ない収穫を厳しく取り立てられ作物はほとんど手元には残らない。

 

助郷は農民に課せられた重い負担であった。助郷とは宿場常備の伝馬人足が不足すると農民に人馬の負担が課せられた。

 

今も変わらない人の所業に博打、不倫がある。博打で捕まると赤い頭巾、赤い半纏を着せられ労役を課せられる。名前を付けての作業だそうだ。息子が人妻に言い寄って殴り込みをかけられた家があった。他には遊女からの営業用ラブレターが残っているという。

 

年貢、助郷、博打、遊女、不倫と障害は様々あるがそれでも身代を上げる家もある。

 

徳川中期になると商品流通が盛んになり富農は換金作物を作り醤油業・酒造業などを兼業益々豊かになり貧農は年貢にさし迫り田地を質に借金して年貢を払い、結局土地は富農に取り上げられ小作人となりしまいには流亡する。