『量助の一件』

『量助の一件』を読み始める。この本の著者がこれまでに目を通した古文書の中で印象に残ったものを一冊にまとめた本である。

 

今日読んだのは「一 将軍鹿狩り」から「八 遊行上人の巡行」まで。

 

面白かったのは「一 将軍鹿狩り」だ。これは花室村名主の手記だという。

将軍が鹿狩りにくることになっているが鹿も猪も一頭もいない。ついては新治・筑波両群の農民たちは猪二十頭を差し出すよう命じられるが十頭ににまけてもらい小田山(現筑波町)で猪狩りをするが一頭も取れない。そこで奥州(土浦藩飛地福島県)と相談したがそこでも一匹もとれない。結局伊豆の国で十匹調達して期日に差し出した。鹿狩り当日、嘉永二年(1849年)三月十八日は手記を書いた名主は鹿狩り見物に出かけた。見物人が多く「古今大そうの人也」だったそうな。

 

そもそも鹿も猪もいない所になんでまた将軍が鹿狩りにくることになったのだろう。魚がいるから魚釣りに行く。鹿がいるから鹿狩りに行くのではないか。

 

将軍が鹿狩りをするから猪を用意しろなどの難題を吹っ掛けられ苦慮している様なのだが何となくコミカルである。難題を吹きかけられた名主さんが鹿狩りを見物にいったら他にも見物人が大勢が押し掛けていたとは可笑しい。

 

またこんな話もある。

「二 安政地震の記録」。

阿見村の名主久兵衛宅の酒宴に連なっていた同じ阿見村の名主久左衛門の手記。

 

安政二年十月二日のことである。年貢割付のために江戸から来ていた旗本丹波家の用人が二人、知行地の巡回を終え丹波阿見村の名主久兵衛の家に滞在していた。夜は酒宴となり、宴が盛り上がった頃大地震が襲った。久左衛門たちは慌てて外へ飛び出したがすぐ揺れは収まったので座敷に戻った。座敷は少々壁が落ち「一寸も曲がり申し候。」盃のすすぎ水がどんぶりに七分目もあったがみんなこぼれてしまっていた。富士の方角に家事が見えた。四里位先か思ったら江戸が火事だったという。余震は二十回もあった。

 

それでも酒宴は続き酒に酔って大騒ぎをして久左衛門は翌朝帰宅した。自宅は人馬とも無事で家屋の被害は僅かだった。

 

旗本丹波家の用人二人は三日夜十時頃、阿見村を立ち江戸に向かう。名主久兵衛は人足二人つけ、握り飯と酒一本を持たせる。用人は夜通し歩き我孫子で朝飯、四日夕刻飯田町の旗本屋敷へ着いた。

 

手記を書いた久左衛門は旗本を見舞うため七日に出発する。

取手から先は、夜はかがり火を焚き武装して徹夜で警戒していたという。八日夕刻、旗本屋敷に到着した。屋敷はそれほどの損傷はなかった。見舞金の相談を用人にすると上へ三分、奥方二人には二分肴料差し上げてはとのことである。奥方というからには当主の母と妻どいうことはないだろうから旗本丹波様には妻が二人いたことになる。

 

久左衛門は二日間江戸に逗留し各所を見て歩く。

本所・深川・吉原大火。小火はたくさんあって数え切れない。死人数知れず。大名などは長持へ死体を入れて車で寺へ運び込むが寺も一ぱいで断られてしまう。酒井雅楽頭、松平下総守邸などの焼跡は「・・・なにも少しもこれ無く皆黒土になり申し候。」

出発してから六日目十二日に帰村する。

 

久左衛門さんの手記では、突然の大揺れに酒宴は一時中断するものの酒宴は続き酒に酔って大騒ぎして翌朝帰ったと本人が何の衒いもなく書き記している。宴会した翌日の夜、江戸へ帰る用人に酒を一本持たせてやったとあるが一本とはどれくらいの量なのかが分からない。今だったら一升瓶一本かと思うが江戸時代に酒ビンがあったわけはない。

 

用人二人は地震の夜、朝まで酒を飲み、朝まで飲んだその日の夕刻江戸へ帰るのに酒と握り飯を持たされた。二日、三日と2日続けて酒は切れてない。二人は阿見村(茨城県)を三日夜十時頃出発して四日夕刻には飯田町に着いている。飯田町は今の水道橋近辺らしい。当然四日の昼も歩いただろうから少なく見積もっても二十時間は歩いたはずである。前の晩から朝まで酒を飲んでいたのに。なんという酒飲み。なんという脚力。

 

久左衛門さん始め、旗本の用人、久兵衛さんたちに酒は水替わりですがと聞きたくなる。